タイ北部の山岳少数民族たち(4)



こういう少数民族の村を訪れる楽しみのひとつは元気な子供たちで、この自然児たちを見ていると何だか元気が出てくる。村と町の距離が近くなっても唯一変わらないのが子供たちの生活。それもそのうちゲームとかはやりだしたりして大きく変わってゆくのかもしれないが、そのときにはそもそもタイの少数民族なんていう言葉ももう死語になっているのではないだろうか。前の日記でテレビを皆欲しがると書いたが、テレビが家庭に入ることでタイの文化、正しいタイの言葉、タイ人としてのアイデンティティーが育ちはぐくまれ、あるいは大都会(バンコクチェンマイ)の暮らしに憧れますます若者は村を顧(かえり)見なくなってゆくのだろう。当のタイ人自体がこの一連の流れを「洗脳」と自嘲的に話すのを何回も聞いた。



これって、何だかどこかで聞いたような話だと思う。
私らの父母が、あるいは祖父母が田舎から東京や大阪などの大都会を目指して集団就職などで移動してきた時代、あるいは現代の中国大陸やその他の国地域で普遍的に起こった、あるいは起こりつつある風景。その流れを停める処方は誰も持ってはいない。そしてありとあらゆるエントロピーは拡散してゆく。